時計はすでに八時を回っている。
この時間に学校を出ても遅刻は確実だ。
しかし今日はそんなことも言っていられない。

「もしもし、俺だ。いや、風邪引いちまってな、熱が三十八度まで出てるんだ。……ああ、だから岡部にそう言っといてくれ、頼むわ。……ああ、ありがとな。じゃあな」

国木田との電話を切る。
あのバレンタインデーまでの肉体的、精神的疲労がたたったのか、それは定かではないが。
この日、俺は入学以来初めて学校を休んだ。



初めての悪戯




朝起きた時からすでに体の調子はおかしかった。
まず、とにかく体がだるい。
あまり寝起きがいいとは言えない俺だが、それを差し引いても今朝はおかしかった。
さらに熱っぽい。
これはもしかしたらそうかな、とは思っていたが、熱を測ると案の定体温計は三十八度を表示した。
幸いそれ以外の症状はなかった。
時期が時期だけにインフルエンザかもしれん。
そしたら欠席扱いされずに学校行かなくてもいいのでそれはそれでいいが。

一応学校のやつには連絡は入れておく。
同じクラスだったらハルヒでもよかったのだが、あいつに電話するところを想像して思いとどまった。

「そんなもん気合で治しなさい!」

こういうに決まってる。
ハルヒなら可能かもしれんが、あいにくと俺にはそれは無理だ。
あくまで俺は一般人なのである。

朝飯は食欲がないので食べなかった。
三十九度近くも熱があれば食欲もわかないってもんだ。

そういうわけで現在俺は静かに自分のベットで横になっている。

「ねぇキョン君大丈夫ー?学校休むの?」

言葉の割にはあまり心配そうな顔をしていなかった妹は、うつすのも忍びないのでさっさと部屋から追い出した。
風邪を引かれると面倒を見るのは俺だからという理由もあったが。


病院が開く時間になったので、だるい体に鞭を当てチャリをこぐ。
母親に車でおくってくれないかと頼んだのだが、

「それくらいの熱なら大丈夫ね」

その一言ですまされてしまった。
さすがあの妹にしてこの母親ありというところか。

病院に着くと、そこにはすでに多くの病人らしき人がいた。
ここにいるほうが悪くなりそうだ。
出来るだけ周りの人と離れられる場所に腰をおろし、呼ばれるのを待つ。

薬をもらって病院を後にする。
診察の結果は、ただの風邪だった。
となると、学校は欠席扱いになるわけか。
進級、大丈夫かな俺。

なんとか家にたどり着き、ベットに横になる。
今はともかく寝たかった。
着替えをすませ、布団をかぶるとあっさりと眠りに落ちた。

次に目が覚めると二時間ほど時計が進んでいた。
自発的に起きたのではなく、部屋の扉から母親に呼びかけられた結果だった。
……母よ。これでも一応俺は病人で、今寝ていたんだが、その認識はあるのか?
これで用事がたいしたことなかったらさすがに腹が立つぞ。

「昼ごはん持ってきたわよ」

前言撤回。さすが我が母親だ。
正直食欲はまったく無いが、それでも食べないというわけにもいかない。

おにぎり一つ分くらいを口にし、薬を飲む。
するとやることがなくなってしまった。
まあ病人は病人らしくおとなしく寝てるか。
いつもならこの時間ならハルヒにペンで背中をつっつかれている時間かなと思いつつ、再び眠りへと落ちた。

トタトタトタという、誰かが階段をかけあがる音で再び目が覚めた。
時計を見ると、時間は四時過ぎ。
この時間なら妹が帰ってきたんだろうな。
それを裏付けるように、

「キョン君大丈夫ー?あとシャミどこにいるか知らない?」

ノックもせずにドアを開け、大きな声を発しながら妹が俺の部屋へと入ってきた。
妹よ、そんなに大声じゃなくても聞こえるぞ。耳は悪くない。
あと俺に対する心配がおざなりだぞ。

「知らん。とりあえずこの部屋にはいない。それより風邪がうつる前に早く部屋から出なさい」

はーい、と返事をして部屋から出て行く。
こういう素直なところはそのままでいて欲しいと兄として思う。
願わくば、ハルヒの影響を受けないことを祈る。

もう一度寝ようと思ったが、さすがに一日中寝ていたせいか眠くない。
かといってなにかするには体がだるい。
なので、なにもせずぼーっとしてみようと思った。

「こらー、シャミー!」

たまーに妹の声と走る音が聞こえるが、それ以外は静寂を保っていた。
ああ、こういうのも悪くない。
この一年の間、こんな静かな時を満喫できたのはほとんどなかったからな。
俺にだってつかの間の休息が必要だ。

しかし、つかの間の休息はやはりつかの間でしかなく。
そんな俺の休息はあっさりと破られることになる。

ピンポーン

すべてはこのチャイムの音から始まった。
その音を聞いた瞬間、俺は確かに嫌な予感を感じた。
もしかしたら俺に予知能力が身についてしまったんじゃないかと疑ったね。
そして俺に嫌な予感を与えるようなやつは知れてるわけで。

はーい、という母親の声。
ああ、母よ。
今日だけでいい。その扉をあけないでくれ。
今日は静かに平穏を味わいたい気分なんだ。
そしたら三日間くらいは朝六時に起きてもいい。

そんな願いも届かず、階段をドタドタとかけ上がってくる音が聞こえてくる。
神様。そんなに俺のこと嫌いですか?
ドアがあり得ない音を立てて開く。

「こらキョン!何団長の許可なしで休んでるのよ。SOS団の活動は年中無休なのを忘れたとは言わせないわよ!風邪くらいで気合で治しなさい!」

ハルヒが家にやってきた。

お邪魔しますくらいは言えんのかお前は。
人の部屋のドアはもっと丁寧に扱え。
年中無休は……前言ってたか。
お前じゃないんだ。気合で治るか。

口に出すのも面倒なので、心の中で思うだけにしておく。
そんなことをするほど体調はよくない。
ので、一番聞きたいことを聞く。

「何しにきたんだ?」

いや、大体わかってることなんだけどな。
むしろこんな時に遊びにきたなんていったらそいつの常識を疑うね。

「何って、お見舞いに決まってるじゃない。団長が団員の身を案じるのも仕事のうちなんだから。つまり今日は仕事で来たってわけ。感謝しなさいよ」

こいつにもそれくらいの常識はあったようだ。
そっぽを向いて早口でしゃべるハルヒの話が終わったかと思うと、

「こんにちは。心配しましたよ。大事でないようでなによりです」

「キョン君、大丈夫ですか?」

その背後から、相変わらずの取ってつけたような笑顔の古泉と、心から心配してくれている様子の朝比奈さんが現れた。

古泉、心配したならもうちょっと他の表情があるだろ。
ただの風邪ですから。朝比奈さん、あなたがそう言ってくれるだけで治りそうです。

古泉は変わらず笑顔のまま、朝比奈さんはほっとしていた。
そしてその後ろにはやはり無表情な……ってあれ?
そこに長門の姿はなかった。

「ハルヒ、長門はいないのか?」

「有希なら用事があるっていって帰ったわよ。なによ、有希がいないと不満なの?」

ハルヒが不機嫌そうに聞いてきた。

「いや、別に。ただ全員で来たのかと思ったからな」

この言葉に嘘はない。
そもそもこいつに百パーセントの嘘を言うと確実に見抜かれる。

「そうね、わたしも珍しいと思ったわ。でもあの娘にもたまには用事とかがあってもおかしくないでしょ?」

幾分機嫌はなおったようで、さっきほど不機嫌には見えない。
ていうか、なんで病人が健康なやつの機嫌を気にせにゃならんのか。

「そうだな」

確かにそうだろう。
長門に宇宙人なんて不思議属性がなければな。

「あー、ハルにゃんにみくるちゃんに古泉くんだー」

シャミセンを抱えて階段を上ってきた妹は、ようやくハルヒたちが来ていることに気付いたようだ。
まずハルヒにじゃれかかり、その後朝比奈さんに飛びついた。
古泉はさわやかそうな笑顔でそれを眺めている。
一通りじゃれつくと、三人で談笑し始める。
それだけを見ればとても微笑ましい光景である。
あるが、ハルヒよ。
お前たちは見舞いに来たんじゃないのか?

その後、ハルヒと朝比奈さんと妹は迷惑そうにしているシャミをさわったりとずっと遊んでいた。
母親はやけににこやかな笑みでお茶を出している。
古泉はと言えば、見舞い用に買ってきたのかリンゴをむいていた。
朝比奈さんがいるのになんでお前のむいたもんを食わなきゃいかんのか、と言ってやりたかったが朝比奈さんが楽しそうに遊んでいるのを見るとそれを遮るのも悪いと思い、仕方なく古泉がむいたリンゴを食べた。
なんてことはない、ただのリンゴだった。

「じゃあ帰るわ。いい?キョン、明日は学校に来るのよ!」

ハルヒはそう言い残して、古泉はとってつけたような笑顔で、朝比奈さんは心配そうな顔で帰っていった。
ほとんど見舞いになってなかったが、正直半日で寝ていることに飽きていた俺とってはいい薬になった。
再認識する。
どうやら俺は、自分の想像以上に染められていたようだ。

妹も部屋から出て行き、再び一人になる。
携帯を手にとり、登録してある番号に電話をかける。

十回目のコールで相手が出た。

「俺だ」

『…………』

聞きなれた沈黙。
つまり相手は長門だ、ということだ。

「何かやっかいな事態が起こってるんじゃないだろうな?」

長門に用事がないとは思わない。
けれど、こいつの場合俺たちに何も言わずに一人で何か事件を解決している可能性は否定できない。
前になにかあったら言ってくれ、とはいったが本当に言ってくるかは未知数なのだ。

『違う』

必要最小限の返事。
長門は、聞かなければ言わないことこそあれ嘘を言うことはない。
ないのでこいつが違う、といえばそれは違うんだろう。

「わかった。前にも言ったが、何かやっかいな事態になったら少しは俺を頼ってくれよ?」

『わかった』

了解の返事を確認する。
これだけ言えば大丈夫だろう。

「ところで、用事ってなんだったんだ?」

長門の用事がなんなのか、興味があった。

『………秘密』

……秘密ときたか。
まあ、こいつにも秘密の一つや二つあるだろう。
そもそも長門自体が秘密の塊とも言えるが。

「そうか。突然電話してすまなかったな。またな」

「また…」

電話を切る。
気にかかっていたこともなくなり、リンゴのおかげで腹もふくれてる。
そのせいか、また眠気がやってきた。
ま、病人は寝るのが仕事だ。
大人しく寝ておこう。


ピンポーン

その音で目を覚ます。
今日はやけに来客が多いな。
しかしさっきような予感はない。
ないので大人しく横になっておこう。


コンコン

うつらうつらしていると、ドアをノックする音が聞こえた。
時計に目をやると八時。
晩飯が出来て呼びに来たか?
ベットから抜け出し、ドアを開く。

ここで気付くべきだったかもしれない。
うちの家族はドアをノックするという習慣を持っていないということに。

「────」

絶句。一気に目が覚めた。
いや、俺じゃなくてもこの光景を見たらみんなこうなるだろうね。
だって、長門がお盆を抱えて立ってるんだぜ?

「大丈夫?」

どうやら風邪のことを聞いているようだ。

「………」

言葉がでない。
首を縦にふるのが精一杯だった。

とりあえず周りを見渡す。
ここは見慣れた俺のうちだ。間違いない。
じゃあ次だ。この長門は本物か?

「………」

この無表情、この雪解け水のような声。長門に間違いない。
最後に自分の頬をつねる。
痛い。当たり前だ。
結論。夢じゃない。

「な、な、なんでここにいるんだ長門っ!?」

その問いにミリ単位で首を傾げ、その後また元の位置に戻し、

「晩ご飯」

そっちかよっ!
長門、確かにお盆にはなにか晩飯らしきものが載っているのはわかるよ。
だが俺が聞きたいのはそっちじゃないんだ。

「ど、どうして長門が家にいるんだ!?」

いまだに心臓はバクバク言っている。
動揺しているのは声を聞けば明らかだ。どもってるしな。

その問いに今度は首を傾げることはなかった。
俺の目を見て、口を開いた。

「お見舞い」

「…………」

とりあえず少し落ち着いた。
あれか?夕方は用事があって来れなかったから今来たってことか?
というか、それ以外考えられん。

「OK、それはわかった。それで、どうして長門が晩飯を運んでるんだ?」

母親が長門に運ばせたのか?
もしそうなら、母親とは一度とことん話さねばならん。
そもそも、下で食べればいいだろうに。

「違う」

しかしその想像は違ったようだ。

「わたしが作って、わたしが運んできた」

「………………」

どうやら今日は俺が長門の役を演じる日のようだ。
お盆に視線をおろす。
確かに、どう考えても多いだろうと思える量のおかゆが二皿載っていた。
この量を作るのは長門しかいない。
って、二皿あるってことはここで一緒に食べるつもりか長門。

「迷惑?」

そう俺を見上げて聞いてくる。
いや、決してそういうわけじゃないんだ。
しかしだな、風邪うつるぞ。

「心配ない」

言って部屋の中へと入ってくる。 長門よ、最近本当に自己主張するようになったな。
まあ、心配というならこっちとしても断る理由はない。


「いただきます」

「どうぞ」

せっかく作ってもらったものなので、ありがたくいただく。
それにしても、俺の部屋というだけで落ち着かなくなるのはなぜだろう?
これが長門の家ならなんともないんだが。
それもおかしいのか?よくわからん。
ともかく。

「うまいな、これ」

「そう…」

うちの母親が作るよりうまいかもしれん。
ただのおかゆではなく、鳥のささ身や野菜が入ってて手間がかかってるのがわかる。

「それにしても、作る機会なんてほとんどないだろうにおかゆの作り方なんてよく知ってたな」

「今日の夕方調べた」

「…………」

いかん、本当にこのまま長門と役が入れ替わりそうだ。

「夕方の用事っていうのは、これの作り方を調べてたのか?」

コクリとミリ単位で頷く。

……今日は長門に驚かされてばかりのような気がするな。
夕方電話した時にそう言ってくれれば俺も驚かずにすんだのに、一体どういう風の吹き回しだ?
すると長門は、俺の顔を見て、まるで思っていることを見透かしたように、

「驚いた?」

「あ、ああ。驚いた」

どちらかというと今日一日の長門にだが。

「そう」

そう答えた顔は、無表情で、しかしそれでいて何らかの表情を浮かべているように見えた。
それはそう、まるで悪戯が成功した時の子供のような。


余談だが、長門が帰った後母親がニヤニヤしながら長門のことを根掘り葉掘り聞いてきたのは言うまでもない。






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