嘘だろ? それが、今の光景を見たときの俺の反応だった。 今の俺はきっと眠れる獅子の尻尾を踏んでしまった冒険家よりもひどい顔をしていることだろう。 なぜかって? それは、 「おはよう」 柔らかく微笑んでいる朝倉涼子が、立っていたからだ。 全くもって訳がわからない。 どうしてこいつが俺の家を知っているのか、なんてことはこの際どうでもいい。 「どうしてお前がここにいる」 問題は、消えたはずのこいつがなぜ今俺の前にいるのかってことだ。 「うーん、あたしが説明してもいいんだけど……」 微笑みを崩さずに、顔を横に向けた。 「ここは私より適任がいるから、その人に説明してもらうわ。ね、長門さん?」 朝倉の視線の先には、いつからそこにいたのか、セーラー服姿の長門が立っていた。 その長門は、朝倉を見たまま俺のほうへトテトテと歩いてきた。 長門、どういうことだ。説明してくれ。 「原因は涼宮ハルヒ」 平常どおりの静かな声。 「おそらく昨日の会話が引き金と思われる」 昨日の会話? ああ、あれか。 「朝倉はいまどうしてるかしらね」 放課後の部室で、朝比奈さんの淹れたお茶をすすりつつ古泉と大して面白くも無いボードゲームをしていると、唐突にハルヒがこんなことを言い出した。 理由なんて知らん。 そこに理由が存在しているかどうかさえ怪しいもんだ。 むしろそれが涼宮ハルヒが涼宮ハルヒである所以なのだが。 「さあな、向こうで元気にやってるんじゃないか?」 表向き朝倉はカナダに引っ越したことになっているが、実際はもうこの世界には存在していない。 しかし、そんな真相をハルヒに言えるはずもないので、当たり障りのない返事をしておく。 「いきなりカナダに引越しなんて、いかにも怪しいわ。何か裏があるのよきっと!」 「そんな訳あるか。単に親の急な転勤とかだろ」 実際は裏しかないがな。 そんな俺の返答が不満なのか、不機嫌そうな顔を作ってこう言ったのだ。 「あ〜あ、一日くらい帰ってこないかしら。詳しく話を聞きたいわ」 こんな他愛の無い会話が原因なのか? 「そう。涼宮ハルヒにとってその会話がきっかけ。それが朝倉涼子の再構成を引き起こした」 相変わらず無茶苦茶だな。 それにしても、なんでこいつは俺の前にいるんだ?ハルヒが会いたいと思ったならハルヒの前に現れるだろ? 「涼宮ハルヒは一方でそれは起こりえないと思っていた。その結果涼宮ハルヒの願望は不完全な形で実現された。朝倉涼子がここにいるのは彼女の意志」 「そういうこと」 俺の顔でも見て楽しんでいるのか、朝倉はさっきからずっと楽しげに微笑んでいる。 とりあえずなんでこいつが存在してるかはわかったよ。 だけど、それならどうして俺の前に現れた? また殺しにでも来たか? 知らず知らずのうちに身構える。 「ずいぶん警戒されてるのね、あたし」 当たり前だ。二回も殺されそうになれば警戒もするさ。 「二回? あたしがあなたを殺そうとしたのは一回だけだったと思うけど?」 不思議そうな顔をして訊いてきた。 ああ、お前は知らないだろうが俺はお前にもう一回殺されそうになったんだよ。 「へぇ、そうなんだ。でも心配しなくていいよ。だってあたしにはもう何の力もないもの。それにあなたに何かする気もないし」 その答えに、俺は長門を見る。 「本当のこと。涼宮ハルヒによる再構成は不完全。涼宮ハルヒにとって朝倉涼子はただの一般人。よって涼宮ハルヒが再構成した朝倉涼子には以前の記憶はあるが、それ以外はただの女子高生。また情報統合思念体との接続のない彼女があなたに危害を加える理由もない」 長門の安定感のある声でその事実を確認して、一つ息をはいた。 どうやら、今回は命の危険に晒されることはなさそうだ。 「それでもあなたは私のことを警戒するのね」 当然だ。 害意がないとはいえ、殺されそうになった相手であることにかわりはなく、もはや無意識的に警戒してしまうのだ。 「ところで、お前は何しに来たんだ」 「そうそう、忘れてた」 忘れてたという言葉とは裏腹にその言葉を待っていたかのように満面の笑みを浮かべて、 「ねえ、あたしとデートしない?」 なんて、俺の予想の遥か彼方な台詞を朝倉は口にした。 「…………」 「あれ、嬉しくないの?」 首を横に傾げる朝倉。 そりゃ普通だったら嬉しいに決まってる。 決まってるが、殺されそうになった相手からデートに誘われた時のマニュアルは俺の短い人生経験の中では用意されていなかった。 誰かうまい答えを知ってるやつがいたら出てきてほしい。 そして答えを教えてくれ。 「あー、どうして俺がいきなりお前からデートのお誘いを受けねばならんのか、理由を教えてほしいんだが」 「理由? うーん、そうね、せっかく有機生命体になったんだから、有機生命体がするようなことをしてみたいじゃない?」 そういうもんなんだろうか。 まあそれはいいとしよう。しかしだな。 「それなら何も俺でなくてもいいだろう。谷口とかにしたらどうだ? あいつなら喜んでお前の相手をしてくれると思うぞ」 「うん、それ無理。だって、あたしが興味があるのはあなただけだもの」 「…………」 状況が状況なら、喜び勇むような台詞なのかもしれない。 が、とても喜べるような状況ではない。 誰かうまい答えを知っているやつ、解決策を送ってくれ。 速達でもダメだ。メールでいますぐ。 「訳がわからないって顔してるね」 訳がわかるやつがいたらそいつをいますぐ紹介してほしいね。 そんな俺の考えなど無視して、朝倉は説明し始めた。 「情報統合思念体の端末だった時のあたしの役割は長門さんのバックアップ、つまり涼宮ハルヒの観察ね。それ以外のことはどうでもよかったの。だからあの学校であたしが興味を持ったのは涼宮さんと、」 一拍間を置いて、 「あなただけ」 「んなわけあるか。お前はクラスのやつらと楽しそうにしてたじゃないか」 朝倉はクスクスと微笑って、 「あれはただ笑顔を作ってただけ。別に楽しくて笑ってたわけじゃないの。そっちのほうが色々と便利でしょ? 観察対象以外に興味もなかったしね。だけど、あなたは別」 どうやら俺は、いつの間にかこいつに興味を持たれてしまったようだ。 しかしだ、どうしたもんかね? 今日は日曜日で、俺は荷物を包むあのプチプチを潰してもいいくらい暇である。 そして、女子と一緒に街を歩くのは一般的な男子である俺としてもやぶさかではない。 だが、それが朝倉だと話は変わってくる。 長門の言葉でこいつに危険がないことは理解してるんだが、体のほうはまだこいつを不安に思っている。 「何なら、長門さんと一緒でもいいわよ」 考え込んでいる俺の様子を見て、朝倉はそう提案してきた。 「長門さんはどう?」 「かまわない」 「決まりね。じゃあ行きましょ」 そう言うや否や、朝倉は俺の腕を掴んで歩き出していた。 おいおい、俺は行くとも行かないともいってないぞ。 と言おうと思ったが、やっぱりやめておいた。 長門は長門で後ろからトコトコとついてきているようで、援軍は期待できそうにない。 なにより。 俺の腕を引く朝倉は、学校で見せていた笑顔が作り物だということがわかるくらいに楽しそうな笑顔を浮かべていたからな。 やれやれ。 さて。 そんな訳で朝倉プロデュースによるデートらしきことをすることになったのだが、俺には身の危険的な不安とは別にもう一つ不安があった。 それはなにかといえば、そんな難しいことじゃない。 ようは、果たして楽しめるか、少なくともあの出来事の時の長門の部屋でおでんを食べた時よりはマシな空気になるか、ってことだ。 なにせここにはあの朝倉がいるわけだ。 そりゃ不安にもなるってもんだ。 しかし、その不安は杞憂に終わることになる。 いままでの経験が俺からそういう神経を奪ったのかもしれん。 それはともかく、朝倉と長門と一緒に街を廻るのはそう悪いことではなかった。 店を見てまわり(当然買いはしない)、腹が減ったので昼飯を食い、その後再びブラブラ歩く、という何の変哲もないことをしていた。 朝倉がしゃべり、俺が相槌をうち、長門は黙っているという構図はあの時と変わらないが、それでもそれは悪くなかった。 ああ、いや、正直に言おう。 楽しかったさ。 「ねぇ、見て見て」 「何だ」 「これ、かわいくない?」 と、近くにあるワンピースを指差す。 「そう思うならそうなんじゃないか?」 「もう、はっきりしないのね」 「悪かったな」 「あ、じゃあこっちは?」 何がそんなに楽しいのか俺にはわからないが、朝倉はずっとこんな感じで楽しそうに笑っていた。 その顔を見ていたら、いつのまにかこいつに対する不安なんてもんはどっかにいっちまってた。 すれ違う男共から羨望とも恨みともつかぬ視線を送られるのには参ったが。 陽が傾きだす頃に、朝倉が、 「最後に行きたいところがあるの」 ということで、俺たちは今、俺が変わり者のメッカと勝手に認定している公園に立っている。 やはりここにはそういうのをひきつける何かがあるのか? そんなことに頭を使っていると、 「今日は楽しかったわ」 朝倉がそう切り出した。 「有機生命体もそんなに悪くないものね」 何ていっていいものかわからず、ただ黙って朝倉の言葉を聞く。 気付けば辺りは誰もおらず、世界は夕暮れに赤く染まっていた。 それはまるで、あの時の教室のようで。 「そろそろお別れの時間ね」 微笑みを浮かべたままで。 朝倉の足が、キラキラとした砂のように崩れ始めていった。 「朝倉!」 無意識のうちに、朝倉の名前を叫んでいた。 「なに?」 「どういうことだ? お前は再構成されたんじゃなかったのか?」 「長門さんも言ってたでしょ? 涼宮さんによる再構成は不完全だって。それに涼宮さんも一目あって話がしたいだけで、ずっといてほしいとまでは思ってなかったみたいだしね」 その間にも、朝倉の体は砂粒になって消えていく。 それにも朝倉は全く動じずに、 「長門さんも、今日一日ありがとう。楽しかったわ」 その言葉に、長門は端から見てもわかるくらいに頷いた。 朝倉は、もう上半身しかない体をこちらに向けて、 「あなたも。そうね、いまなら有機生命体の死の概念が少しだけわかる気がするわ」 言って、いままでずっと浮かべていた笑顔を少し、ほんの少しだけ曇らせて、 「少し、残念」 もう朝倉は首から上しか残っていない。 その顔を見て、呆けていた頭がようやく動き出した。 「待て、朝──」 「じゃあね──キョンくん」 最後に。 俺の名前を呼んで。 朝倉は、笑顔で消えていった。 夕暮れの公園の中、俺は長門に問いかけた。 「長門は、知ってたのか? 朝倉がこうなることを」 ナノ単位で首肯。 「そうか」 「そう」 いつものやり取り。 別にそのことを伝えなかったからとこいつを責めるつもりはない。 それより今は、こいつに聞きたいことが出来た。 「なあ長門」 「なに」 「朝倉はハルヒが望んだから復活したんだよな?」 「そう」 「じゃあ、ハルヒがまた望めば朝倉は復活するのか?」 小さく首を縦に動かす。 「そっか」 「そう」 それで終わり。 これ以上は、お互い言わなくてもわかるに決まってるさ。 長門も朝倉のことは嫌いではないようだし。 長門と別れ、夕暮れの中を歩く。 明日学校にいったら、俺はハルヒに朝倉のことを話してやろうと思っている。 あいつのことだ、朝倉の話をすれば興味を持つに違いない。 歩く。 あのクラスには委員長性質をもったやつが必要だと、俺は思うわけだ。 それに。 もうすでに宇宙人、未来人、超能力者がいるんだ。 いまさら特殊設定がついたやつが増えようがたいしたことじゃないさ。 風が吹く。 「ふふ。またあたしとデートしてくれるなら、考えてもいいよ」 そんな声が、聞こえた気がした。 |